車というものは、今から約110年前からあります。1883年にダイムラーがそのエンジンの原型を開発して以来、1900年までは吸排気はポペットバルブで行い、混合気を電気火花で点火し、ピストン、コンロッド、クランク機構で出力を取り出すという基本構成が確立されました。以来改良を重ね、エンジンの原型があるわけです。
そんな中、イタリアもその例外ではなくフィアットを筆頭に各地に自動車を造る企業が旗揚げしつつあった。
ところが、1907年にフランスを襲ったアカディール危機の影響でダラックは急激に業績が悪化し、同時にダラック・イタリアーナ社も経営基盤が危うくなっていく。
後のALFAの社長カバリエレ・ウーゴ・ステッラ(Cavaliere Ugo Stella)と、後のA.L.F.A のチーフエンジニアジュゼッペ・メロージ (Giuseppe Merosi) が1909年の7月にミラノのアパートで出会い、最初の車「12HP」と「24HP」について契約を交わす。
1910年、1月1日。ついに待望のイタリア人による自動車会社の誕生である。その名は、A.L.F.A.
( Societa Anonima Lombarda Fabbrica Automobili )すなわち、ロンバルダ自動車製造株式会社の誕生である。
だが、実際この時点で「メーカー」と言えたのか?は微妙である。
1910年6月24日、ALFA社とダラック・イタリアーナ社は、工場・生産設備・人員その他一切を譲渡するという契約書に調印し、ALFA社は自動車メーカーとしての創業を開始する。
創業開始と同時に「24HP」の発表。11月発売へと続くが、実は「12HP」がその前に存在する。
1910年6月24日「24HP」発表以降も暫らくは、ALFAの設計部門はミラノのアパートに置かれた。
このネーミングは当時のイタリアにおいて課税の基準となっていた排気量1リットル当たり6HPという馬力指数が根拠となっている。
すなわち24HPは4リットルの排気量を示していたということになる。もちろん、実馬力は明らかに大きく4048ccで45HPを示していた。
当時の経営陣から、実用性を持ち尚且つスポーツ性に富み高性能であること。という方針のもと生み出された車には新しい顔(エンブレム)が選定されることになる。 それは、少年を喰わえた大蛇と十字を組み合わせたミラノ市の紋章の周りと ALFA MILANO の文字を組み合わせたものである。
12世紀以来ミラノの支配者であったスフォルツァ家とビィスコンティ家。そのビスコンティ家の紋章に由来しており、その意味でA.L.F.Aのエンブレムはミラノの誇りと言ってもよい。
さらに、24HPのシリアルプレートにはクアドリフォリオ・ヴェルデ。四葉のクローバーが刻み込まれている。
1923年に第14回タルガ・フローリオ(Targa Florio)を走ったAlfa Romeo
RLTFに白地(a
white background)の三角形に四つ葉のクローバ(a green
four-leaf clover)が入ったマークを付けてウーゴ・シボッチ(Ugo
Sivocci)が初優勝している。ウーゴ・シボッチの発案で幸運を呼び込むマークとして付けられた。これが、クアドリフォリオ(Quadrifoglio)の始まりだと言われているようです。
A.L.F.A.に大きな転機が訪れたのは1915年である。24HP開発後も順調に見えたにも拘らずその経営実態は安定しなかった。
筆頭株主のバンカ・イタリアーナ・ディ・スコントは有能な経営者に株式を譲渡するとにした。ここで名前が挙がったのがニコラ・ロメオである。
彼の当時の会社は第1次世界大戦の激化のなか戦争による軍事景気によって莫大な財産を手にし従業員1000人にもおよぶ会社となっていた。
1918年、ニコラロメオの会社は有限から株式に昇格し航空機会社をも吸収合併、ほどなくA.L.F.A.の株の過半数を購入しその経営権を手にした。
12HPとシリーズを別に24HPも発売され、その他15HP、15−20HP、20−30HP、40−60HPと1921年まで改良が加えられながらも生産されヒルクライムを中心にジュゼッペ・カンパーリ、アントニオ・アスカーリ、ウーゴ・シヴォッチらの活躍によりスポーツレース界でも名が売れてきた。
ここからのA.L.F.A.にはエンブレムに新たにROMEOの文字が加わりアルファロメオとして商品展開されていくことになる。1921年戦後のアルファは「RL」から始まった。エンジンは24HPの4リットルSVからRLは3リットルのOHVになった。当時のOHV機構は最新のテクノロジーであり市販車にもレースカーにも同等の基本的概念をもちALFA ROMEOの伝統が現れ始めることになる。
そして、レース界でウーゴ・シヴォッチは業績を認められGPレースのテストドライバーとして雇用される。そこで彼がまもなくCMNのテストドライバーをしていた時の同僚のエンツォ・フェラーリを誘う。この事が後に重要になり、エンツォは個人的友人であったメカニックのルイジ・バッツィと天才設計者ヴィットリオ・ヤーノをフィアットからアルファロメオに引く抜いてくるのである。
ヴィットリオ・ヤーノはレースカーは基より市販モデルでも業績を上げた。その具体化こそが1927年のミラノショーに出した6C1500である。6気筒1500ccながらベルギア・シャフト駆動によるSOHCという画期的なメカニズムを発表したのである。驚きなのはこのエンジンを市販車に搭載してることである。この時すでにスポーツレース用としてはギアトレイン駆動のDOHCを準備していた。のちのスポルトである。
この6Cがさまざまなバージョンで生産されていた1931年、ヤーノは時期のスーパースポーツカーをリリースする。2シーターの8C2300である。 ギアトレイン駆動のDOHC直列8気筒スーパーチャージャーというもの。この車はル・マンで4連勝を飾りモンツァという名で1929年にセミワークスとしてエンツォ率いるチームでGPレースを戦った。8Cシリーズは以後2600、2700、2900と排気量をアップしていった。
1934年には、6C系の新型として6C2300がデビューした。このマシンは第2次世界大戦前におけるアルファの主力となり多くのバリエーションが存在する。ツーリスモ、グランツーリスモ、ペスカラ、コルト、ルンゴ、ミッレミリア、さらに1939年デビューの6C2500は第2次世界大戦中に一時生産中止を余儀なくされ戦後のアルファを担う存在としてボディを一新しつつ1952年まで生産され最終型としてフレッチア・ドーロと呼ばれた豪華なスポーツセダンで終わっている。
一方で飛躍してきたアルファロメオも、1929年に起きたニューヨークの株式大暴落による大恐慌の影響から逃れる事が出来ずに経営は悪化していった。ところが、極めて高度な工業技術ゆえにその存在はイタリア工業界と経済界に対して重要な影響を及ぼしていた。その為に経営規模縮小するより政府の支援を行い管理していくいう方法がとられ国益に適うという判断がなされた。1933年にはIRI(産業復興公団)の管理下のもと資本投下を受けて事実上の国営企業として歴史を歩んでいくことになる。ただ、そんな中でもアルファロメオの経営理念は断固として譲らずスーパースポーツ界でもその名が失せることはなかった。
経営悪化の翌年1930年、社名が”Societa Anonima
Italiana Ing. Nicola Romeo” から ”S.A. Alfa Romeo” に変更。
この時、ブランド名と社名が同一になった。
また、1930年代のALFAROMEOの設計室ではヴィットリオ・ヤーノの指導のもとジョアッキーノ・コロンボが実力を蓄えつつあった。だが、1937年、GPマシンの開発に失敗してヤーノがアルファロメオを去ってからは公認としてウィフレード・リカルトがサポートを務め最終的にはあの名車ティーポ158を手がけるのである。
第二次世界大戦終結後6C2500の再生産から始まったアルファロメオは1948年、社名が ”S.A. Alfa Romeo” から「Alfa Romeo S.p.A.」へと改められた。
戦後のアルファロメオにとって最も重要だったのは戦後政策の決定にほかならなかった。それまで培った技術力を維持しつつより大衆側へと歩み寄った量産車メーカーへと姿を変えることにした。そしてこの方針に則って開発されたのが戦後初のモデル1900シリーズであった。この設計はジョアッキーノ・コロンボの後任として主任設計者の座に就いたオラツィオ・サッタ・プリーガである。
この1900シリーズは1958年には2000ccにアップし1962年には6気筒の2600に発展していった。最高級モデルは1965年に登場したザガートのデザインに拠るSZであった。
1954年、1900に次ぐ戦後2台目の新型車が加わった。排気量わずかに1300ccの小さなDOHC4気筒エンジンにオールアルミブロック。ボディは4ドアのベルリーナと2ドアのスプリント、そしてオープンのスパイダーである。ネーミングはシェークスピアの悲劇に由来するアルファ「ロメオ」に対してジュリエット。最初のジュリエッタは750系です。最初のGiulietta のSpintは(Tipo750B)Giulietta
(Berlina)は(Tipo 750C)、Giulietta Spider (Tipo 750D)です。そして最初の101系Giulietta はGiulietta Sprint Speciale (SS) (Tipo 101.20) )です。
その後、750系シャシーの車両も1959年以降順次101系に変更されています。
高性能モデルのベローチェやベルリーナにはTI(ツーリスモインテルナツィオナーレ)が設定された。1960年アルファロメオからジュリエッタスパイダーベースにベローチェ以上のエンジンを搭載してカロッツェリアに供給した。そしてベルトーネがボディデザインしたのがジュリエッタSS(スプリントスペチアーレ)でザガートがデザインしたのがジュリエッタSZ(スプリントザガート)である。前者は豪華なツーリングカーで後者はレーシングカーという趣になった。さらに後の1、6リッターの同時期に登場したジュリアTZとより車高の低いジュリアTZ2も製造された。
戦後のアルファロメオはジュリエッタの成功により量産型に変貌していった。排気量も1、3リッターから1,6リッターというミドルクラスに落ち着く。エンジンは1950年から1960年まではDOHCのみであり、このことは日本のホンダにも似た興味深い点がある。そしてこの理念により他の量産メーカーとは一味違う一面を見るのである。また、こういう時代の中で戦後のアルファロメオが「ジュリア」であるということに異論がある人は少ないだろう。
ジュリアとは1962年に発表された1、6リッタークラスの総称である。ネーミングの由来は1、3リッターのジュリエッタに対して1、6リッターは姉に当たるというものである(105系シャシーナンバー)。バリエーションは2ドアクーペをスプリントと4ドアセダンのTIそして、スパイダーの3種。ここでまったくのニューモデルはジュリアTIのみであった。実際スプリントとスパイダーはジュリエッタベースに過ぎない。ジュリアTIに次ぐジュリア系のニューモデルは1963年に登場したジュリア・スプリントGTである。ベルトーネのデザインによるまったく新しいボディになりエンジン足回りこそ旧モデルのままだがそのスタイルは見る者に強烈なインパクトを与えた。比較的ローコストながらDOHCはもちろん、5速ミッションや4輪ディスクブレーキを標準装備するなどなんともアルファロメオらしい信念が伺える。ジュリア・スプリントに進化型が加わったのは1965年のこと。ジュリア・スプリントGTVである。付け加えられた「V」の意味こそ「VEROCE」イタリア語で「速い!」を意味する。GTと併用して販売されたモデルで実質はマイナーチェンジ版として判断するのが正しいだろう。
一方、既に生産終了されていたジュリエッタだが、ジュリアボディを得てからも新しくジュリエッタの1、3リッター版としてデビューすることなく、ジュリア・スプリントのデビューと時を同じくして一時旧ボディで復活したものの、モデルチェンジは先送りとなる。ジュリア・スプリントGTの発表は1963年9月(フランクフルトショー)
新ジュリエッタというべきジュリアスプリントの1、3リッター版がデビューするのは1966年のこと。ただし、ジュリエッタの名前は付かず新たにGT1300ジュニアと呼ばれる事になった。また、ジュリア・スプリントGTのデビュー後、一台のスペシャルバージョンが登場する。その名はジュリア・スプリントGTA。(発表は、1965年)最後の「A」は「ALLEGGERITA」すなわち、「軽量化済み。軽い」を意味する。文字通りGTAは、軽量バージョンである。その手法はムービングパーツを外し、応力の掛るルーフパネルまでもアルミ化しリベット止め、防音材を総て廃止、この事により1020kgから745kgに軽量することになる。エンジンも点火系をツインプラグ化しハイコンプレッション(高圧縮による高出力)仕様となり足回りの強化も配慮され市販版のレーシングカーと変貌した。当然ツーリングカーレースを前提に設計されておりGTAコルサ、1300GTAジュニアと名前を変えヨーロッパ、アメリカで大活躍することになる。
GTVは尚も進化を遂げる。1967年には、1、6リッターから1、75リッターへ排気アップしている。エンスーには1750で通用するこのモデルからクーペボディに大きな変化が見られる。あらゆる面でバランスのとれたこの1750GTVはアルファクーペの中で今だ人気の高い車種である。レーシングバージョンの1750GTAmのあまりにもマニアックなスタイルは105系の最高峰とも言える。もちろん「段付き」で通用するジュリア系(105系)の人気があるのは言うまでもない。1750はフロントボンネットの段差がなくなりグリルも一新しヘッドライトが4灯式になった。また、GT1300ジュニアとGT1600ジュニアでボンネットの段差がなくなってしまうがこの段差こそフロント剛性の強化の為に配慮され計算された隙間だったことを付け加えておく。更に、排気量アップは続いた。ジュリア系の最終型とも言うべき1962cc「2000GTV」である。この排気量がジュリア系エンジンの限界であったといってよい。1750よりボディも約50kg削られディファレンシャルにはLSD(リミテッドスリップディファレンシャル=ノンスリップデフ)が標準装備となる。バランスデザインでは1750に人気を譲るもののヒストリックレースとしてのジュリアのチューニングにおいてやはりこの2000GTVは根強い人気を持っている。嫌われる要因としてはフロントグリルの伝統の盾に刻みが入ってしまったことと、リアランプの大型化にありそうである。以降ジュリア系は1977年から1980までにほとんど生産は終了してしまう。
ここでもう一つのグループがある。1962年のジュリアTIに端を発するセダン系のジュリアである。まず、1963年に市販のレースバージョンともいうべきジュリアTIスーパーである。生産台数はわずか501台あまりだがこの車もボディはアルミ化し軽量で尚且つ空力にも優れたデザインであった。いささかこの車に「醜いジュリア」などと付く事自体私としては侵害である。警察のパトカーとしても活躍したジュリアスーパーはセダンのボディを生かしてイタリアの警察に愛され124,590台近く量産された。このほかワゴンタイプのジャルディネッタやプロミスカも存在する。そして1968年には新しいベルリーナシリーズへと新化していった。ジュリアの名前こそ付かなかったものの実質的にはジュリアスーパーのアップバージョンであった。フロントマスクは異径の四灯式ランプになりサイドのプレスラインなども無くなった。アルファのエンスーの中でも更に通が好むベルリーナは2000ccまで排気量アップされエンジンには2000GTVと同じもの載せられた。約9万台生産されることになる。
もう一つ重要なモデルがスパイダーである。1954年にデビューしたジュリエッタスパイダーをルーツとする戦後型のスパイダーが一新されたのが1966年のこと。当初1600スパイダーと呼ばれていたこのモデルは車名を一般公募で募集し「デュエット」と命名された。ただし1600ccのみである。のちの1750スパイダーはスパイダーヴェローチェ。1300ccモデルはスパイダージュニアと名付けられた。映画の「卒業」でダスティンホフマン演じるベンがアルファのシフト癖を説明していたのも、もちろん「デュエット」である。この長いボートテールに魅了される人も多くいるに違いない。後ろ斜めからみるデュエットのラインこそまさに圧巻の一言である。ただ、空力的に問題だったのも事実でSZやTZに見られる「コーダトロンカ」(尻切れ)こそ空力の極みであったともされている。
また、1300スパイダーボディでザガートがデザインしたスペシャルクーペ「ジュニアZ」にも注目は集まった。コンパクトに集約されたボディと重量物をすべてホイールベース内に置くという運動性能重視により的確なコーナーリングを見せつけた。1、3リッターと1、6リッターが生産されたが1500台ほどしか存在しなかった。
尚、スパイダーベローチェは1750から2000へと排気アップされヨーロッパ仕様とアメリカ仕様に分かれて1979年まで生産された。
戦後アルファロメオの歴史は良くも悪くもジュリエッタに端を発し、ジュリア系の各車の存在に大半を依存していた。これらのモデルが末期にさしかかった時、アルファロメオは新しいモデルを模索した。その結果、アルファスッドとアルフェッタが誕生した。どちらも高性能かつ個性的であったもののジュリアのような人気を得られる事はなかった。
このことでアルファスッドは北部イタリアに対して明らかに産業基盤が稀弱であり生活レベルも低かった南部イタリアの雇用促進に伴うプロジェクトとして誕生したというマイナスイメージが更にアルフェッタに関してはトランスアクスル&ドディオンチューブという経年変化の影響を受けやすい凝ったメカニズムがその評価において災いしたことは間違えない。もちろん、このシリーズもよりエンスーな方にはファンが多く33や75や90など軽快な走りを見せるスポーツセダンとして人気があった。だが、残念ことにこの時期に日本にはアルファのディーラーがなく結果的に不幸な時代が生まれる要因になったことは否めない。
1980年アルファロメオの経営基盤は一段と危うくなったいった。相変わらずIRIの支配下であったものの、車業界では思わしくなかった。支援が続いていたのは航空機エンジン部門があったことに他ならない。この時アルファロメオが取った策とは1980年に日産自動車と共同出資組織として設立しARNAであり、パルサーボディにアルファスッドのエンジンの載せたというなんとも不思議な組み合わせである。このことも失敗に終わり日産との提携を解消され2兆リラの先行投資を取り戻す為にフィアット傘下に収まり、ランチャアと事実上合併することになった。
現代、アルファロメオはフィアット・グループの一員を構成しながらもフィアットとは違う独自の方向性を示し155、164はどちらともFFながらもドライビングセダンの味付けとしては断固アルファらしい車を見せ付ける事に成功した。その後ニューモデルとして145、146、スパイダーとGTV、156と166。さらには、147へと極めて個性的で新時代に向け、常にリードし続けるメーカーになったと言えるでしょう。
アルファロメオは、単なる量産メーカーではなく、あくまでスポーツカーのメーカーとしての自負を忘れはしない。そんな先人の熱き想いの積もった車と僕はこれからもずっと付き合っていきたいと思う。・・・・・・やがて、ガソリン車が無くなろうとも!!